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遠忌法要-7-1  950遠忌 安倍貞任公

遠忌法要-7-1 貞任祭 950遠忌大法要

950遠忌 安倍貞任公・音楽(シンセサイザー)大法要

於:栃木県佐野市  本山 妙顕寺 

 H23,9,17 が貞任祭の正当です。かねがね、栃木県佐野市・本山・妙顯寺で師範猊下に払を執って頂き、大法要をと願っていました。しかし、3,11の諸事情から断念か? ところが天の計らいで支援者が現れました。

 

 加えて、テレビの映像(私の顔が大きく映っていたそうです)を見て、突然私を来訪された高麗様のご支援で、思いもよらない音楽(シンセサイザー)大法要が実現したのです。

 

 現在の貫首・斉藤朋久猊下と、加歴の野澤文立猊下に副導師をお願いし、有縁の各聖・各位にご参列頂きました。

       

   

 切り絵は、新宿・末廣亭で、林家正楽師匠に切って貰いました。オーダーの時に、「安倍貞任お願いします」と言うと、師匠は先客の作品を切りながら怪訝な顔、すると袖から円蔵師匠が出てきて、間合いを取ってくれました。そこで、前九年後三年合戦の950遠忌が近いことを説明すると、正楽師匠は直ぐに反応して、3番目に出来上がりました。

 

衣の館(たて)は綻(ほころ)びにけり」「糸の乱れの苦しさに」 と馬上で句を詠み合わせたというのですが、さて、どちらが安倍貞任公・八幡太郎義家公?

 

集合写真と、950遠忌法要の記念品に押したスタンプです。

                            

遠忌法要-6  800遠忌 三浦氏4祖・三浦大介義明公 結婚式と800遠忌

遠忌法要-6

800遠忌 三浦氏4祖・三浦大介義明公

結婚式と800遠忌法要  釜石市 仙寿院で

S55,7,28 27歳の時に、三浦氏族の岩間氏と結婚しました。式中、法華経・壽量品偈文の「雨曼陀羅華 散仏及大衆」(まんだらけを ふらして ほとけ および だいしゅうに さんず)の時、薄金製の花びらが、チャリン チャリン チャリン と内陣・大衆 に降り濯ぐ音を耳にし、「あーこの経文は真実なのだ」と実感しました。式後に妻に確認したら、「聞こえなかったよ」と言っていました。

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「佛語實不虚」「仏語は実にして虚しからず」 写真1行目

 この年は三浦大介義明公の800遠忌でもあり、挙式の明くる日に、それまで調べ上げた平安・鎌倉期からの両家先祖累代の精霊を角塔婆に書き込み、芝崎猊下大導師の元、一族の僧侶が式衆となり、大法要を営みました。

      

衣笠 満昌寺 境内の記念塔

遠忌法要-5 750遠忌  宝治合戦 H8.6.5 善慶寺

遠忌法要-5 750遠忌  宝治合戦 H8.6.5 善慶寺

 

令和4年のNHK大河ドラマで、目下放映中の事です。

私は25歳の時に、歌子さんと、三浦半島を慰霊旅行しました。

鎌倉幕府 評定衆の 三浦氏7代目 泰村公は、北条氏と安達氏の謀略で、一族が殲滅されました。父6代目 義村公が没するのを待っての事でした。

頼朝公の法華堂に276名が籠もり、自刃したと伝わって居ます。頼朝公の墓所の奥に櫓があり、三浦氏の墓もひっそりと建って居ます。

   

一説に依れば、此時に泰村公の遺児は、母の計らいでお寺に入り天目上人となり、後に日蓮聖人に師事して、美濃阿闍梨天目日盛として、中老僧に列したと言われています。

 

母は幕府が道元禅師を鎌倉に招聘した時に、摂待役をしていて禅師と面識があり、そのつてを頼ったのかも知れません。

 

日蓮聖人はその頃は、近畿方面に遊学中でしたが、御遺文には、この戦で三浦泰村公が亡くなった事を知り、義村・泰村親子の不遇を記してあります。

 

義村公は、三浦氏の全盛期を迎えた人で、承久の乱では大将として、3上皇の流罪や、次期天皇の差配を指揮しており、後鳥羽上皇の遺児・日蓮聖人としては、因縁浅からぬ関係でした。

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