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史跡慰霊-2  安倍氏縁地-2 津軽

史跡慰霊-2 安倍氏縁地-2 津軽

 

  霊夢です。盛岡市の北外れの国道4号線に「わかれ」という大きな交差点があります。私はそこに立っています。そのまま4号線を青森方面に向かうのかと思いきや、左折して岩手山の方へ曲がります。登山するのか? すると今度は山際で右へターンして奥へ入って行きました。

 

 これは、「津軽へ足を向けよ」という事と感じ、善慶寺の檀信徒40数名と共に、大型バスで安倍・安東氏に纏わる十三湊周辺・秋田県生保内の犠牲者慰霊に巡拝を重ねました。地元の衣川周辺・金ヶ崎の鳥海柵や・盛岡市の安倍館などは勿論です。 

 

津軽巡拝の旅 

 H30.マイクロバスで北上に集合。布教所で法味言上して出発。

                                                                 

 東北道を北上し、十三湖に到着。シジミラーメンでお腹を満たして

安東氏の平城・福島城跡。

安東氏の宗教施設、日吉神社で読経・唱題。

                                                                                                                                               

 山城・唐川城跡から、津軽平野を望むと、津軽富士の岩木山の麓から、十三湊周辺に広がる大地は、昔、温暖な頃は、きっと栄えた場所だと感じました。

            

                                                                      

 「日本海側に冷害は無く豊かだと言います。一方、温かい筈の太平洋側は、貧しい国だったとか。夏にはヤマセが吹いて米が不作・飢饉になるから。」

                                                                                      

 日本海側を南下して、不老不死温泉で海端の露天風呂へ。夕食・宴会を一時中断して、綺麗な夕陽を眺めました。

                                                               

 後三年合戦の地に向いました。途中、金澤の柵に寄り、学芸員の解説。次いで激戦地で読経。

   

                                                                                                                                                                                    

 秋田県・2箇所の施設に、盛岡市で開催した、安倍貞任公950イベント記念誌を寄贈しました。

                                                                                                           

 麺で昼食を摂って北上に戻りました。東京・仙台からの参加者は新幹線で帰途に就きました。

 

                       

史跡慰霊-1 三浦半島

史跡慰霊-1 三浦半島

 

  令和4年、NHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」ですが・・・

25歳頃、歌子さんと巡拝しました。

初めての地、三浦半島。書籍などを集めて、一日で歩く(電車・バス・タクシー・徒歩・船)計画を立てました。

曇天で今にも大雨が降りそうに、肩まで黒い雲が降りて居ます。

鎌倉八幡宮で、

「この巡拝が無事に終わるよう、雨を止めて戴きたい」

と、懇請しました。

城ヶ島の船の遊覧だけは、高波でダメでしたが、他は予定通りに廻りました。

 

 衣笠の青雲寺・三浦氏3代。為道・為次・義継公(前九年後三年合戦従軍)

 衣笠の満昌寺 三浦氏4代目。義明公(頼朝公旗揚げに捨身・頼朝公感恩)

ご住職(建長寺宗務総長)から、三浦氏系図2巻を拝見。初代・為道公の舎弟・園城寺上座僧・三浦惠算法院を、因縁の人と感得。爾来供養を重ねました。

源氏の棟梁・頼家公は、この頃園城寺の信徒になっていて、東北征伐の談義を重ねたのでしょうか、板東8平氏も加担し、法印も従軍僧として両軍に影響があったようです。

    

下は、園城寺

衣笠の薬王寺跡 三浦氏5代目。義澄公(評定衆)

 

三浦氏6代目。義村公(評定衆・全盛期・幕閣№2)

 

   

 三浦氏7代目。泰村公(評定衆・全盛期・幕閣№2)

北条と安達の謀略で、頼朝公の法華堂に籠もり

276名で自刃。

     

 このお墓の右奥に、櫓の祠が在り、三浦一族が眠って居ます。

 

 この時に、四散した一族が在り、嘗て岩手に落ちた、霊夢は別の項に記します。

 

 私の先祖は、三浦氏の知行地、和歌山・河内・土佐

讃岐等を海伝いに西へ向かい・肥前に落ちたと思われます。

 

 父の生家は、熊本県下益城郡中央町(現・美里町)で、墓は在りますが、嘗ては熊本市と言います。肥前から南下した者か?

 

 やがて、直ぐに再起上京して、後醍醐帝に近侍したのが、霊夢の「三浦大納言時光公」でしょう。

 

 カテゴリーの霊夢とリンクして、話は進みます。

 

 横須賀駅で電車の人となった途端に、土砂降りの大雨。鎌倉通過の途中、電車の中から、八幡様にお礼を申し上げました。

 

 因みに、家に着いてから天気図を見ると、三浦半島に向っていた低気圧は、90度右旋回して、太平洋に去って行きました。

遠忌法要-7-2 950遠忌 安倍貞任公-2 天昌寺 盛岡市

遠忌法要-7-2 

 貞任祭950周年・安倍氏と源氏の和解イベント

950遠忌 安倍貞任公-2 天昌寺 盛岡市

  盛岡市に、かつて岩手県歴史研究会があり、私もメンバーになっていました。会合で貞任祭950周年・安倍氏と源氏の和解イベントを提案しました。

 会はこれを容れて、盛岡市安倍館の側にある天昌寺での法要。岩手県公会堂に満員を集め、安倍晋三・自民党総裁からのメッセージ(自民党総裁選中で来県断念)、地元の安倍貞任公末裔39代目安倍隆氏、大阪府羽曳野市からは八幡太郎義家公子孫39代目の高木大明(ひろあき)氏、学者、谷藤盛岡市長・メディア関係者等が参加してシンポジュウム。

ホテルでの和解イベント・宴も開催し盛会裡に終了。

記念誌・前九年合戦シンポジューム        (矢巾町(有)ツーワンライフ)

TEL:019-681-8121   FAX:019-681-8121) も発刊されました。

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「記念誌 寄稿文」

前九年後三年合戦

日蓮宗 別格本山 妙顕寺 加歴 第48世 
             三 浦 恵 伸 日 常 (みうらえしん)


950年前、桓武平氏三浦一族は、源頼義・義家と共に奥州征伐に加担。氏祖為道の舎弟・園城寺上座僧三浦惠算法印も従軍僧として馳せた。勝利して三浦半島に勢力を張り、4祖義明は頼朝の挙兵に捨身、子弟に道を拓く。5祖義澄は頼朝の藤原征伐に従軍、功を成す。6祖義村も評定衆に加わり最高潮期を迎える。しかし若き7祖泰村は北条氏によって滅びた。

 

泰村の忘れ形見三男駒孫丸は、母の計らいで天目山にて仏門に帰した天目上人と思われると言う。師は後年、日蓮大聖人に縁あり、美濃阿闍梨天目日盛と名を得て中老僧に加わる。池上で師範の焼骨を拾い、三浦一族縁の北関東に教線を巡らし、下野に妙顯寺・妙音寺、常陸に修多羅寺を創す。

 

某、昭和27年、熊本県免田町の三浦家に出生。422月(14歳)、岩手県釜石市日蓮宗仙壽院・芝崎惠璋師に入門。直ちに因縁の浮くこと20余年。南北朝・鎌倉・平安期に遡り、三浦氏奥州征伐罪障消滅の為に、東北へ来たる事を領解す。

 

降って吾が師範猊下は、本山佐野妙顯寺45世に晋山。不肖某48世(加歴)の猊座を汚すは、真に天目聖人のご縁には如かず。即ち、龍王寺(曾て代務住職)を安倍氏菩提所として北上川沿いに復興し、陸奥の霊地をいかばかりでも浄化し、懺悔滅罪に資すべく取り組むも、この間4度の死線をくぐる。

 

平成214月、子弟(龍王寺住職・三浦惠導師。善慶寺副住職・惠廣師)も教師となり、伴いて三浦半島に赴き、祖霊に所願を祈念す。

 

本年917日、貞任忌(第950回)を迎えるに当たり、827日・妙顯寺に於いて、師範猊下大導師の元、戦禍犠牲者菩提の為に、追善法要を奉行す。

 

今時、日本国内乱を企つ者は無いと思うが、明治期までは実際に有った。殺戮より共生が建設的だと知った。意識の問題だ。世界も同じ。人の世界観が広がれば地上で戦を構えることは愚かで虚しいことと知るのである。

 

21世紀は本質の時代というが、生命の本質は神仏の現れと見るのが究極の認識で、新しい生命にその意識を持たせることが、国を挙げて取り組むべき課題である。先ず日本国に理想の国家を実現して、世界に見本を示し、国家の博覧会(観光立国)を開催しよう。祖霊に報いる事は、安心をして貰う事。それを四海静謐(せいひつ)という。

 

 誌友有志のお力添えを賜り、安倍・源・藤原・三浦等の菩提所一宇を興したい。既に夢の中では完成した寺観を見せられている。

 

そうだ、曾て、宮沢賢治記念館の奥に在る胡四王神社で、坂上田村麿将軍から「ワシの名を語って全国に支援を願え、そなたよりワシの方が名が通っておるからのう」と、激励されていた。

 

 

平成23年4月28日。宗祖立教開宗と、某の得度記念日に記す。

 

その後首相となった、安倍晋三氏からのメッセージには、安倍貞任公の弟・宗任公の42代目と書かれていました。

 

 山陰方面のあるご住職が来県の折りに、この姫君の墓所(下の写真)も案内しました。ご自坊に帰ってから1ヶ月間これらの霊に取り憑かれ大変な目にあったとご述懐。私は何十年間も大変な思いをしていると応えました。

 

 平泉の毛越寺隣地、観自在王院跡には、此れを建立した姫。その敷地後部隅にひっそりと建つ墓の主は、前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓 仁平2壬申年420有日

 (藤原基衡公の室は、安倍宗任公の姫君でした。グーグル地図で視ると、位置が分かります。右奥です。)

 

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