史跡慰霊-10 隠岐の島・瀬戸内の村上神社(水軍)
史跡慰霊-10 隠岐の島・瀬戸内の村上神社(水軍)
村上氏所縁の人と3名で、隠岐の島と瀬戸内海の村上神社に詣でました。
隠岐の島には、後鳥羽帝の陵と、別の島に後醍醐帝の行在所跡が在ります。
行く事が決まり、隠岐の島に在る、日蓮宗寺院の老僧に、その旨電話をすると、「三浦君、岩手からわざわざ何をしに来るの?」
その老僧は、自坊を後継者に譲り、悠々自適を擲って、単身、後鳥羽帝の菩提の為に島に移った方でした。
そして、私の叔父の、長﨑市・久本寺歴世・仁田原恵王師の立正大学時代の友人でした。叔父の入寺式には参列して法話をされた由。窮乏の時代でしたが、叔父が「お前には特別ご馳走を用意しといた。」と言っても白米の事でした。
関門大橋の袂の宿で、甲府の兄・苅込義宗師と老僧と3人で泊まり、大橋を眺めながら色々と談義をした事もありました。
さて、代々、後鳥羽帝の墓守りを、宮内庁から依頼されている、村上助九郎氏には、喜んで迎えて頂き、陵の中まで入って拝ませて頂きました。2重3重の結界がしてあるのです。
その時に、台風19号で、大杉が多数折られてしまった事を聞かせて頂きました。
鎌倉期か、村上家の初代に、福岡県八女郡の星野家から嫁しています。私の母方は、八女の星野氏族と思われます。仁田原氏です。
その夜は、老僧も交えて、村上家の奥様もお揃いで夕食会でした。
老僧は、「わしはもう何年も此処に居るが、まだ陵の中に入って拝んだ事は無い。三浦君は今日来て直ぐに入れてもらえるとは?」
と、少しご機嫌が斜めでした。
史跡慰霊-9 吉野山
史跡慰霊-9 吉野山
善慶寺に住職して数年後に、桜の名所・吉野山に行きたいと、急に思い立ちました。
釜石駅前に在った、東急観光のSさんに、「急で申し訳ないけど、吉野山の桜を見れますか?」
何とか工面をしてホテルを手配して貰いました。ところが、出かける時に胸騒ぎがしました。
「この旅は吉か凶か?」調べると、真っ暗でした。恐ろしくなり、キャンセルしました。
Sさんのお怒りは、相当でした。
秋に、所属の団体で、京都に研修旅行が組まれました。その日は、當山の御会式に当たっていました。悩みましたが、立場上断れずに参加しました。
その足で、春に断念した吉野山にも向いました。一人では心細いので、道連れを一人誘いました。
あの山は、徒歩では無理です。タクシーを借り切って山々を巡ります。後醍醐帝の行在所跡の神社等々。
楠木正成公の子息が出陣の時に、扉に辞世の句を刻んだ観音堂を拝し、裏山の後醍醐帝の陵を参拝して降りて来た時です。もの凄い死臭の毒気に中てられて、卒倒しそうになり、もう参拝どころではありません。時間前でしたが宿に駆け込み、連れは放って、自分で布団を敷き、コンコンと寝入ってしまいました。
吉野山は日本史上、戦禍に血塗られた山です。
春に一人で来ていたらと思うとゾッとしました。
反省点は、供養を積む前に訪れた事でした。
秋の御会式は、10月の第3日曜日と定めて来ました。いつも日和が良く、爽やかな行事でした。処が、住職の都合で、突然予定を変更したのです。霊界でお手配をして戴いて来たことが、狂ってしまいました。
変更した日は、何と、青森県のリンゴが全滅した、台風19号が岩手県の太平洋沿岸にも大被害を与えたのでした。お昼に用意した弁当が全部残ってしまうほど、誰も参詣出来ない大暴風雨でした。
もうそれに懲りて、痛く反省し、「霊界でのお手配を無にしての、我が儘はもう致しません。」お詫びをし、年間行事の日程変更は厳に慎んで居ます。
隠岐の島に詣でた時に、墓守の村上助九郎氏が、「その台風で、後鳥羽上皇の陵の真上に台風の目が来て、墓陵周囲の大杉を軒並み、なぎ倒した」と言って居ました。
史跡慰霊-8 浮き御堂
史跡慰霊-8 浮き御堂
ざぶん ざぶん と波の音。湖面に浮かぶ立派な木造建築のお堂が、夢に現われました。
調べると、琵琶湖に浮かぶ神社でした。
園城寺を参拝の折に、訪ねました。夢の通りでした。
前世で眺めて居た風景かも知れません。