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遠忌法要-7-2 950遠忌 安倍貞任公-2 天昌寺 盛岡市

遠忌法要-7-2 

 貞任祭950周年・安倍氏と源氏の和解イベント

950遠忌 安倍貞任公-2 天昌寺 盛岡市

  盛岡市に、かつて岩手県歴史研究会があり、私もメンバーになっていました。会合で貞任祭950周年・安倍氏と源氏の和解イベントを提案しました。

 会はこれを容れて、盛岡市安倍館の側にある天昌寺での法要。岩手県公会堂に満員を集め、安倍晋三・自民党総裁からのメッセージ(自民党総裁選中で来県断念)、地元の安倍貞任公末裔39代目安倍隆氏、大阪府羽曳野市からは八幡太郎義家公子孫39代目の高木大明(ひろあき)氏、学者、谷藤盛岡市長・メディア関係者等が参加してシンポジュウム。

ホテルでの和解イベント・宴も開催し盛会裡に終了。

記念誌・前九年合戦シンポジューム        (矢巾町(有)ツーワンライフ)

TEL:019-681-8121   FAX:019-681-8121) も発刊されました。

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「記念誌 寄稿文」

前九年後三年合戦

日蓮宗 別格本山 妙顕寺 加歴 第48世 
             三 浦 恵 伸 日 常 (みうらえしん)


950年前、桓武平氏三浦一族は、源頼義・義家と共に奥州征伐に加担。氏祖為道の舎弟・園城寺上座僧三浦惠算法印も従軍僧として馳せた。勝利して三浦半島に勢力を張り、4祖義明は頼朝の挙兵に捨身、子弟に道を拓く。5祖義澄は頼朝の藤原征伐に従軍、功を成す。6祖義村も評定衆に加わり最高潮期を迎える。しかし若き7祖泰村は北条氏によって滅びた。

 

泰村の忘れ形見三男駒孫丸は、母の計らいで天目山にて仏門に帰した天目上人と思われると言う。師は後年、日蓮大聖人に縁あり、美濃阿闍梨天目日盛と名を得て中老僧に加わる。池上で師範の焼骨を拾い、三浦一族縁の北関東に教線を巡らし、下野に妙顯寺・妙音寺、常陸に修多羅寺を創す。

 

某、昭和27年、熊本県免田町の三浦家に出生。422月(14歳)、岩手県釜石市日蓮宗仙壽院・芝崎惠璋師に入門。直ちに因縁の浮くこと20余年。南北朝・鎌倉・平安期に遡り、三浦氏奥州征伐罪障消滅の為に、東北へ来たる事を領解す。

 

降って吾が師範猊下は、本山佐野妙顯寺45世に晋山。不肖某48世(加歴)の猊座を汚すは、真に天目聖人のご縁には如かず。即ち、龍王寺(曾て代務住職)を安倍氏菩提所として北上川沿いに復興し、陸奥の霊地をいかばかりでも浄化し、懺悔滅罪に資すべく取り組むも、この間4度の死線をくぐる。

 

平成214月、子弟(龍王寺住職・三浦惠導師。善慶寺副住職・惠廣師)も教師となり、伴いて三浦半島に赴き、祖霊に所願を祈念す。

 

本年917日、貞任忌(第950回)を迎えるに当たり、827日・妙顯寺に於いて、師範猊下大導師の元、戦禍犠牲者菩提の為に、追善法要を奉行す。

 

今時、日本国内乱を企つ者は無いと思うが、明治期までは実際に有った。殺戮より共生が建設的だと知った。意識の問題だ。世界も同じ。人の世界観が広がれば地上で戦を構えることは愚かで虚しいことと知るのである。

 

21世紀は本質の時代というが、生命の本質は神仏の現れと見るのが究極の認識で、新しい生命にその意識を持たせることが、国を挙げて取り組むべき課題である。先ず日本国に理想の国家を実現して、世界に見本を示し、国家の博覧会(観光立国)を開催しよう。祖霊に報いる事は、安心をして貰う事。それを四海静謐(せいひつ)という。

 

 誌友有志のお力添えを賜り、安倍・源・藤原・三浦等の菩提所一宇を興したい。既に夢の中では完成した寺観を見せられている。

 

そうだ、曾て、宮沢賢治記念館の奥に在る胡四王神社で、坂上田村麿将軍から「ワシの名を語って全国に支援を願え、そなたよりワシの方が名が通っておるからのう」と、激励されていた。

 

 

平成23年4月28日。宗祖立教開宗と、某の得度記念日に記す。

 

その後首相となった、安倍晋三氏からのメッセージには、安倍貞任公の弟・宗任公の42代目と書かれていました。

 

 山陰方面のあるご住職が来県の折りに、この姫君の墓所(下の写真)も案内しました。ご自坊に帰ってから1ヶ月間これらの霊に取り憑かれ大変な目にあったとご述懐。私は何十年間も大変な思いをしていると応えました。

 

 平泉の毛越寺隣地、観自在王院跡には、此れを建立した姫。その敷地後部隅にひっそりと建つ墓の主は、前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓 仁平2壬申年420有日

 (藤原基衡公の室は、安倍宗任公の姫君でした。グーグル地図で視ると、位置が分かります。右奥です。)

 

遠忌法要-7-1  950遠忌 安倍貞任公

遠忌法要-7-1 貞任祭 950遠忌大法要

950遠忌 安倍貞任公・音楽(シンセサイザー)大法要

於:栃木県佐野市  本山 妙顕寺 

 H23,9,17 が貞任祭の正当です。かねがね、栃木県佐野市・本山・妙顯寺で師範猊下に払を執って頂き、大法要をと願っていました。しかし、3,11の諸事情から断念か? ところが天の計らいで支援者が現れました。

 

 加えて、テレビの映像(私の顔が大きく映っていたそうです)を見て、突然私を来訪された高麗様のご支援で、思いもよらない音楽(シンセサイザー)大法要が実現したのです。

 

 現在の貫首・斉藤朋久猊下と、加歴の野澤文立猊下に副導師をお願いし、有縁の各聖・各位にご参列頂きました。

       

   

 切り絵は、新宿・末廣亭で、林家正楽師匠に切って貰いました。オーダーの時に、「安倍貞任お願いします」と言うと、師匠は先客の作品を切りながら怪訝な顔、すると袖から円蔵師匠が出てきて、間合いを取ってくれました。そこで、前九年後三年合戦の950遠忌が近いことを説明すると、正楽師匠は直ぐに反応して、3番目に出来上がりました。

 

衣の館(たて)は綻(ほころ)びにけり」「糸の乱れの苦しさに」 と馬上で句を詠み合わせたというのですが、さて、どちらが安倍貞任公・八幡太郎義家公?

 

集合写真と、950遠忌法要の記念品に押したスタンプです。

                            

遠忌法要-6  800遠忌 三浦氏4祖・三浦大介義明公 結婚式と800遠忌

遠忌法要-6

800遠忌 三浦氏4祖・三浦大介義明公

結婚式と800遠忌法要  釜石市 仙寿院で

S55,7,28 27歳の時に、三浦氏族の岩間氏と結婚しました。式中、法華経・壽量品偈文の「雨曼陀羅華 散仏及大衆」(まんだらけを ふらして ほとけ および だいしゅうに さんず)の時、薄金製の花びらが、チャリン チャリン チャリン と内陣・大衆 に降り濯ぐ音を耳にし、「あーこの経文は真実なのだ」と実感しました。式後に妻に確認したら、「聞こえなかったよ」と言っていました。

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「佛語實不虚」「仏語は実にして虚しからず」 写真1行目

 この年は三浦大介義明公の800遠忌でもあり、挙式の明くる日に、それまで調べ上げた平安・鎌倉期からの両家先祖累代の精霊を角塔婆に書き込み、芝崎猊下大導師の元、一族の僧侶が式衆となり、大法要を営みました。

      

衣笠 満昌寺 境内の記念塔

遠忌法要-5 750遠忌  宝治合戦 H8.6.5 善慶寺

遠忌法要-5 750遠忌  宝治合戦 H8.6.5 善慶寺

 

令和4年のNHK大河ドラマで、目下放映中の事です。

私は25歳の時に、歌子さんと、三浦半島を慰霊旅行しました。

鎌倉幕府 評定衆の 三浦氏7代目 泰村公は、北条氏と安達氏の謀略で、一族が殲滅されました。父6代目 義村公が没するのを待っての事でした。

頼朝公の法華堂に276名が籠もり、自刃したと伝わって居ます。頼朝公の墓所の奥に櫓があり、三浦氏の墓もひっそりと建って居ます。

   

一説に依れば、此時に泰村公の遺児は、母の計らいでお寺に入り天目上人となり、後に日蓮聖人に師事して、美濃阿闍梨天目日盛として、中老僧に列したと言われています。

 

母は幕府が道元禅師を鎌倉に招聘した時に、摂待役をしていて禅師と面識があり、そのつてを頼ったのかも知れません。

 

日蓮聖人はその頃は、近畿方面に遊学中でしたが、御遺文には、この戦で三浦泰村公が亡くなった事を知り、義村・泰村親子の不遇を記してあります。

 

義村公は、三浦氏の全盛期を迎えた人で、承久の乱では大将として、3上皇の流罪や、次期天皇の差配を指揮しており、後鳥羽上皇の遺児・日蓮聖人としては、因縁浅からぬ関係でした。

遠忌法要-4  700遠忌 日蓮大聖人

遠忌法要-4  700遠忌 日蓮大聖人

S55.4 身延山で大塔婆供養 2000円×150本=30万円 

4月借用10月返済

  

師範猊下が、「今年は4月に身延山に連れて行く」との事。「では、30万円程貸して下さい」

「何に使う?」「折角祖師の700遠忌に身延山に詣でるなら、今まで調べた先祖供養をしてきたいと思います」「分かった」

秋の御会式までに完済出来ました。

最初は8本からスタートしたものが、いつの間にか150本になって居ました。

現在はもっと増えて居ます。

 

S55.6.28 挙式 (この話は別の項で)

善慶寺新本堂上棟式と総代長の岩間シノブさん

S56.6 長女・寿麻の誕生

   7/14 山田へ

   11/お会式 入寺式 700遠忌お会式奉行

遠忌法要-3   600遠忌 三浦大納言時光公

遠忌法要-3  

600遠忌 三浦大納言時光公 

R4.2.10が、三浦大納言時光公、65歳の600遠忌です。

妻・子息、皮膚病で亡くなった娘。眷属・刀剣則光、牛馬等の供養を奉行しました。

DSC_0650                 位牌は、光の反射の都合で、並びを不規則にしています。

 

遠忌法要-2  450遠忌 善慶寺開基因縁供養

遠忌法要-2

450遠忌  善慶寺開基因縁 S62.10.18

住職して間もなくの夢です。境内山の斜面に、桑の大木が8本在ります。(昔はお蚕をかっていたようです。)夫々に大蛇がドクロを巻いていて、私はゾッとしました。

 

 ここからは現実です。深夜二階で休んでいると、階下を多くの霊達が徘徊し、二階を伺う殺気を感じる毎日が続きました。下の檀徒・佐藤サトさんに話すと、このお寺の因縁話が明らかになりました。

 

 そこで、婦人部で千粒団子をこさえて、師範猊下を大導師として迎え、施餓鬼大法要をし、3年かかってようやく治まりました。

 

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度、開基因縁の霊位が450遠忌に当たって居ました。

宗祖700遠忌と併せて、開基120年誌を発行しました。

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遠忌法要-1 50遠忌  太平洋戦争敗戦50周年犠牲者慰霊法要

遠忌法要-1 50遠忌 太平洋戦争敗戦50周年犠牲者慰霊法要

 

夏の暑い日でした。お昼頃、居間で寺族と談笑中の事、私の後頭部に突然、氷水を浴びせられ、衝撃が走りました。チアノーゼになり、海老(えび)のように身体が硬直して身動きが取れません。

 

家族は総立ちになり、救急車を呼ぼうとしています。私は「此れは水で冷たい思いをして亡くなった犠牲者だ」と直感しました。そこで「判った、判った」と指でVサインを立てると、「ピンポーン・正解」と反響がありました。

 

玄関のチャイムが同時に鳴ったのです。小枕の大屋敷の娘さんでした。

 

「自分が幼い時に、父が南方の船で玉砕したそうです。今日は供養の申込に来ました。」

「お父さんが今お寺に来て居ますよ。先触れがあって、お父さんと同じ苦しみを味わいました。」

「そうだったんですね。有り難う御座います。」

 

私の母の兄・仁田原恵王師(長崎市・久本寺第6世)も、シナで戦病死しています。檀信徒中にも多くの犠牲者があります。

善慶寺で角塔婆を建立し、有志者で霊位を記入して、法要を営みました。

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