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English / Reimu / Touken Norimitsu Eshin Miura

英文・霊夢・刀剣 則光 三浦恵伸

 

 

English / Reimu / Touken Norimitsu Eshin Miura

 

 

 

  •  三浦大納言時光公と、並び立つ2振りの刀剣

 

 

  • Miura Dainagon Prince Tokimitsu and two swords standing side by side

 

 

 

東京都の立正大学に通う20歳の頃の夢です。

突然「三浦大納言時光」の文字が浮かび、

次いで、聖徳太子が腰にしているような直刀と、

反りの入った日本刀が、ギラリと並び立ちました。

 

 

It was my dream when I was 20 years old to attend Rissho University in Tokyo.

Suddenly, the words "Miura Dainagon Tokimitsu" appeared,

Next, a straight sword like Prince Shotoku's waist,

Curved Japanese swords lined up side by side.

 

 

 

三浦氏に大納言は出ていないし、2振りの刀剣は、公武対立を象徴しているので、これは、時代的に、後醍醐帝に近仕した南朝の陰の歴史と判断しました。

 

 

Mr.Miura does not have Dainagon, and the two swords symbolize the conflict between the public and the imperial court.

I judged this to be the shadow history of the Southern Court, which served Emperor Go-Daigo.

 

 

 

爾来、供養を重ねました。

 

 

 

Since then, I have continued to feed him.

 

 

 

南北争乱は60年間に亘りました。昭和時代が動乱続きだったようなものです。

そのエネルギーは、一体何処から出て来たのでしょうか?

 

 

 

The North-South War lasted for 60 years. It's like the Showa era was a series of turmoil.

Where did that energy come from?

 

 

 

  •  25歳の頃の霊夢です。

高貴な2人 壁掛けの刀剣

 

 

  • This is Reimu when she was 25 years old.

Two noble people Wall-mounted swords

 

 日本庭園付きの立派な書院で、高貴な2人が、座卓で額を寄せて密談中です。

1人が立って襖を開けると、床に磬台(けいだい)・筆が、壁に2振りの日本刀が掛けてあります。

 

 

In a splendid study with a Japanese garden, two nobles are having a private conversation with their foreheads together at a low table.

When one person stands and opens the fusuma, there is a rug and a brush on the floor, and two Japanese swords on the wall.

 

 

ここを良く覚えておくようにと、黒塗りの鞘にズームアップ。

 

 

I zoomed in on the black-painted scabbard to remember this point. 

 

これは、南北朝期、京都・大覚寺での、後醍醐天皇と三浦大納言時光公と思われます。

 

 

This is believed to be Emperor Godaigo and Miura Dainagon Tokimitsu at Daikakuji Temple in Kyoto during the Northern and Southern Courts period.

 

 

十数年後、その刀との出会いがありました。

持ち主は曽ての外務大臣・自民党幹事長、安倍晋太郎氏と言う事でした。

 

 

Ten years later, I had an encounter with that sword.

The owner was Mr. Shintaro Abe, former Minister of Foreign Affairs and Secretary-General of the Liberal Democratic Party.

 

 

道元禅師も、成仏は法華経の力によると言い、

後醍醐帝も未来を法華経の力に頼ったのか・・?

 

 

Dogen Zenji also said that attaining Buddhahood depends on the power of the Lotus Sutra.

Did Emperor Godaigo rely on the power of the Lotus Sutra for his future?

 

 

(後醍醐帝 崩御の絵画があります。右手に剣・左手に法華経巻を持って居ます。枕元には、磬台(けいだい)・が置かれて居ます。ネットで検索して下さい。)

 

 

(There is a picture of the death of Emperor Godaigo. He holds a sword in his right hand and a scroll of the Lotus Sutra in his left. There is a bedside table. Please search for it on the Internet.)

 

 

日蓮聖人はもっとそのことを吟味されたのだと思います。

 

 

I believe that Nichiren Shonin examined this matter more closely.

 

 

後鳥羽上皇の承久の乱も、後醍醐天皇の南北朝(60年間)争乱も、朝廷中心にこの日本国を良くしたいという思いからの行動だったと思えば、どのシステムで行うかという思慮が大事だと、 日蓮聖人はお考えになったのでしょう。その考察が「立正安国」運動になったと思います。

 

 

Retired Emperor Gotoba's Jokyu Disturbance and Emperor Godaigo's 60-year strife in the Northern and Southern Dynasties were both actions driven by the imperial court's desire to improve Japan. That's what Nichiren Saints thought. It is believed that this consideration led to the “Rissho Ankoku” movement.

 

 

現代科学はマクロ・ミクロ共に、長足の進歩を遂げて神秘の領域に迫っており、お釈迦様・日蓮聖人の悟りに対する、人々の理解や信解(しんげ)がより深く強くなっていくでしょう。

 

 

Modern science, both macroscopically and microscopically, has made great strides and is approaching the realm of mystery, and people's understanding and belief in the enlightenment of Buddha and Nichiren Saints will become deeper and stronger.

 

 

此の英訳文は、グーグル翻訳で作成しています。

和英から更に和訳すると、かなりの違いが起きていることを、

ご承知下さい。

その為に、和英両文を併記しました。

 

This English translation is created by Google Translate.

When translating from Japanese to English, there is a considerable difference,

Please understand.

For that reason, I wrote both Japanese and English.

English/personal history blog started

English/personal history blog started 

 

英文・自分史 ブログ 開始 

 

March 22, 2016  Eshin Miura Nitizyo

 

2016322日   三浦恵伸(えしん)日常

                                             Close-up  近影

       

Shingyou Dojo  信行道場

                        

Returning to the Mountain   Ceremony 帰山式                                                                                      

Memorial service for the 700th anniversary of the founder of the sect Iwate

Prefecture宗祖700遠忌 岩手県管内法要

 

                      

A serial retrospective of 50 years.

This is the reason why I became involved in the restoration of Ryuo-ji Temple.

 

50年間を回顧して連載します。

龍王寺復興に関わる事になったきっかけからです。 

 

S42, 2, 19 From Menda-cho, Kuma-gun, Kumamoto (merged "Menda-cho, Kuma-gun → Asagiri-cho, Kuma-gun"), became a disciple of Shibasaki Keiji, chief priest of Senjuin Temple in Kamaishi City, Iwate Prefecture.

 

S42,2,19 熊本県球磨郡免田町《合併「球磨郡免田町球磨郡あさぎり町」》から、岩手県釜石市の仙寿院住職・芝崎惠璋猊下に入門。 

 

 

When I asked my mother, who was washing rice in the kitchen sink, "Isn't it better to go to Kamaishi?" I will come," he replied.

 

 台所の流しで米を研ぐ母に、「釜石に行った方が良いかな?」と、問うと、背中越しに、「行きない。坊さんは停年が無かし、歳ば取る程に光って来る」と、応えました。

(切り絵・松本寛章氏)

(Cutout by Mr. Hiroaki Matsumoto)

 

 

I was greeted by my master at the ticket gate of Kamaishi Station. At that time, there were about five large chimneys of Yawata Steel Works.

 

 釜石駅の改札口で、師匠に迎えて頂きました。当時は、八幡製鉄所の大煙突が5本程聳えていました。

(切り絵・松本寛章氏)

(Cutout by Mr. Hiroaki Matsumoto)

 

 

What did you suddenly come to Tohoku for? It became a theme.

Fate begins to appear soon, and every day is tough.

 

 突然、何をしに東北の地に来たのか? テーマとなりました。

すぐに因縁が出始め、大変な毎日。 

 

 

At the age of 20, Reimu attends Rissho University in Tokyo.

A Japanese sword and a straight sword stand side by side, next to the characters "Miura Dainagon Tokimitsu".

This is a problem of Japanese history and public-martial conflict. However, Mr. Miura does not have Dainagon. I felt the history behind it, and since then, I have held memorial services.

 

東京で立正大学に通う20歳の頃、霊夢。

日本刀と直刀の抜き身が、ギラリと並び立ち、次に「三浦大納言時光」の文字。

これは日本史上・公武対立の問題。しかし、三浦氏に大納言は出ていません。裏の歴史と感じ、以来、供養を重ねました。 

 

The photo is of the Icho (Kumamoto) Castle castle tower. (When I was in the first year of junior high school)

The type you want to try yourself? "In the past, things were loose." It's impossible now because I'm being watched.

          

写真は、銀杏(熊本)城 天守閣  武者返しの石垣登り、やはり途中でリタイア。(中学1年生の頃)

自分で試したいタイプ? 昔は、色々緩かった。今は監視されているから不可能です。

右は、長男・惠導・地震前。

 

史跡慰霊-10 隠岐の島・瀬戸内の村上神社(水軍)

史跡慰霊-10 隠岐の島・瀬戸内の村上神社(水軍) 

 村上氏所縁の人と3名で、隠岐の島と瀬戸内海の村上神社に詣でました。

 

 隠岐の島には、後鳥羽帝の陵と、別の島に後醍醐帝の行在所跡が在ります。

 

 行く事が決まり、隠岐の島に在る、日蓮宗寺院の老僧に、その旨電話をすると、「三浦君、岩手からわざわざ何をしに来るの?」

 

 その老僧は、自坊を後継者に譲り、悠々自適を擲って、単身、後鳥羽帝の菩提の為に島に移った方でした。

 

 そして、私の叔父の、長﨑市・久本寺歴世・仁田原恵王師の立正大学時代の友人でした。叔父の入寺式には参列して法話をされた由。窮乏の時代でしたが、叔父が「お前には特別ご馳走を用意しといた。」と言っても白米の事でした。

 

 関門大橋の袂の宿で、甲府の兄・苅込義宗師と老僧と3人で泊まり、大橋を眺めながら色々と談義をした事もありました。

 

 さて、代々、後鳥羽帝の墓守りを、宮内庁から依頼されている、村上助九郎氏には、喜んで迎えて頂き、陵の中まで入って拝ませて頂きました。2重3重の結界がしてあるのです。

 

 その時に、台風19号で、大杉が多数折られてしまった事を聞かせて頂きました。

 

 鎌倉期か、村上家の初代に、福岡県八女郡の星野家から嫁しています。私の母方は、八女の星野氏族と思われます。仁田原氏です。

 

 その夜は、老僧も交えて、村上家の奥様もお揃いで夕食会でした。

 

 老僧は、「わしはもう何年も此処に居るが、まだ陵の中に入って拝んだ事は無い。三浦君は今日来て直ぐに入れてもらえるとは?」

 

と、少しご機嫌が斜めでした。

史跡慰霊-9 吉野山

史跡慰霊-9 吉野山

 

 善慶寺に住職して数年後に、桜の名所・吉野山に行きたいと、急に思い立ちました。

 

 釜石駅前に在った、東急観光のSさんに、「急で申し訳ないけど、吉野山の桜を見れますか?」

 

 何とか工面をしてホテルを手配して貰いました。ところが、出かける時に胸騒ぎがしました。

 

「この旅は吉か凶か?」調べると、真っ暗でした。恐ろしくなり、キャンセルしました。

Sさんのお怒りは、相当でした。 

 

 秋に、所属の団体で、京都に研修旅行が組まれました。その日は、當山の御会式に当たっていました。悩みましたが、立場上断れずに参加しました。 

 

 その足で、春に断念した吉野山にも向いました。一人では心細いので、道連れを一人誘いました。

  

 あの山は、徒歩では無理です。タクシーを借り切って山々を巡ります。後醍醐帝の行在所跡の神社等々。 

 

 楠木正成公の子息が出陣の時に、扉に辞世の句を刻んだ観音堂を拝し、裏山の後醍醐帝の陵を参拝して降りて来た時です。もの凄い死臭の毒気に中てられて、卒倒しそうになり、もう参拝どころではありません。時間前でしたが宿に駆け込み、連れは放って、自分で布団を敷き、コンコンと寝入ってしまいました。 

 

吉野山は日本史上、戦禍に血塗られた山です。

春に一人で来ていたらと思うとゾッとしました。 

反省点は、供養を積む前に訪れた事でした。

 

 秋の御会式は、10月の第3日曜日と定めて来ました。いつも日和が良く、爽やかな行事でした。処が、住職の都合で、突然予定を変更したのです。霊界でお手配をして戴いて来たことが、狂ってしまいました。

 

 変更した日は、何と、青森県のリンゴが全滅した、台風19号が岩手県の太平洋沿岸にも大被害を与えたのでした。お昼に用意した弁当が全部残ってしまうほど、誰も参詣出来ない大暴風雨でした。

 

 もうそれに懲りて、痛く反省し、「霊界でのお手配を無にしての、我が儘はもう致しません。」お詫びをし、年間行事の日程変更は厳に慎んで居ます。 

 

 隠岐の島に詣でた時に、墓守の村上助九郎氏が、「その台風で、後鳥羽上皇の陵の真上に台風の目が来て、墓陵周囲の大杉を軒並み、なぎ倒した」と言って居ました。

 

史跡慰霊-8 浮き御堂

史跡慰霊-8 浮き御堂

 

 ざぶん ざぶん と波の音。湖面に浮かぶ立派な木造建築のお堂が、夢に現われました。

調べると、琵琶湖に浮かぶ神社でした。

園城寺を参拝の折に、訪ねました。夢の通りでした。

前世で眺めて居た風景かも知れません。

史跡慰霊-7 恵算法印

史跡慰霊-7 恵算法印

 

 平安期・氏祖為道の舎弟・三浦恵算法印が上座僧として園城寺に居た頃、源氏の棟梁・頼義公は園城寺の信者になっており、彼らは東北の安倍氏討伐の談義をしたものと思われます。

園城寺山門

 この源氏の東北征討には 三浦半島の三浦氏を始め、板東八平氏が揃って加担し、三浦為道・為次・義次の三代が参戦したようです。三浦恵算法印も従軍僧として参加、両陣営に深く関わったと思われます。

史跡慰霊-6 三浦氏所縁 三浦寺 富士吉田市

史跡慰霊-6 三浦氏所縁 三浦寺 富士吉田市

 

「霊夢の項・三浦寺」に掲載

史跡慰霊-5 油谷町 安倍氏館

史跡慰霊-5 油谷町 安倍氏館

 

山口県油谷町で御守護神(倶生霊神尊)のご加護

 別の夢です。細い道を辿ると、奥に3階建て程の木造建築物があります。いつものように音声付きテロップで、

  

「安倍晋太郎の生家である。戦の時は城代わりに使った」と流れてきました。

  

 安倍家は山口県の方ですが、どこの市町村かは知りません。調べると日本海に面した油谷町、今は長門市です。

  

 山口県に出講の折、空港から小郡に出て、日産レンタカー・グロリア?で、秋芳洞に寄り(熊本での修学旅行以来)一泊して、件の道を探し求めると、夢通りに車で通るにはギリギリの狭さです。しかも今は両脇がブロック塀でしたから尚更の事です。奥にワンピースを着たご婦人が居て、夢の話をすると、「昔、在りましたよ」と返事が来ました。かつてそこは醤油屋やさんでした。

  

 晋太郎氏の没後で、墓参し東家で長文の記帳をして萩市に移動。タクシーで2時間ほど観光しました。

 

 最後に萩焼窯元1番卸屋の座敷に行くと、畳の二間に茶碗類が・・「どれでも手にとって見て下さい」と女将。見回すと棚にあった黒塗りの小さな茶碗が私を呼びます。畳の上で手に取るとスーッと両手に馴染み、違和感無く収まり、薄手で得も言われぬ心地良さ。「いいですね」と言うと、「三輪休雪(人間国宝)の作品です。どうぞ持って行って下さい」と女将。あまりの高値に断念しました。ドライバーと好物のうどん屋に寄ってタクシーと別れました。 

 

 瀬戸内側に戻るべく、国道を右折する交差点であると、分かっていながらスルーしました。次左折し又左折すると、行き止まりです。「何かあるな」と思い、焦らずに元の交差点から右折して、県境に近づくと救急車が萩方面へ急行しました。パトカーも数台出て片側通行です。行く方がマークIIで、飛び込んで来た萩方面行きの車がクラウンでした。前面が大破で湯気が立つホヤホヤの大事故です。 

 

 御守護神(倶生霊神尊)が時間差で除けて下さったスルーかと納得し、感謝しました。出来事は、時空の一致点に発生します。今回、空間は避けられないので・・1本道ですから。

史跡慰霊-4 盛岡 衣川

史跡慰霊-4 盛岡 衣川

 

 盛岡市・安倍舘 此処で安倍氏は滅びました。遺児が津軽へ落ちて、安東氏になったと言われて居ます。

 宗任公は捕縛され京都へ。有名な詩を詠み、都人に驚愕された由。その後讃岐に流罪。一族における九州や長州の祖となったようです。

姫は奥州・平泉・藤原の室となり、観自在王院を建立したとの事。

                             

 身延山第3世の日進上人は、安倍氏に所縁の方のようです。日持上人が大陸伝道に向かったのには、安東氏の手づるがあったのかも知れません。

 

 

衣川 

         

  

 安倍一族はこの地で80年間栄えました。奈良の明日香と同じで、何処を掘っても遺跡なので、むやみに建造物は出来ないようです。

 

初めて訪問した時に、数名で高台に聳える、国民宿舎・衣川荘に泊まりました。

(切り絵・昇天・松本寛章氏)

 

   深夜の夢に、霊の集団がドーナツ状に、衣川荘を取り囲みました。

「長い時間、待って居たぞ」と、言っているようでした。

村に点在する安倍氏所縁の各所を、懇ろに慰霊して歩きました。

史跡慰霊-3  秋田県 生保内  

史跡慰霊-3 秋田県 生保内

    

 

合戦時に、婦女子を匿った地で、命を保つ内。ひっそりとしています。

津軽の旅の2日目に、秋田の史跡巡りがあります。

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