・震災以前に、避難所指定 知事への手紙 木っ端
山田町役場から、震災などの場合に避難所として指定させて欲しい旨の通知がありお受けしました。町の広報にその一覧が掲載されました。役場へ電話をし、「何か準備は出来ているか」と尋ねましたが、「何も無い」とのこと。
そこで、知事に手紙を書きました。「避難所になることは覚悟していますが、役場で何も準備が無ければ、いざという時にうまく対応が出来ません」暫くしてから、電話がありました。「工藤です」「どちらの?」「知事の工藤巌です。今知事室から電話をかけています。貴方の手紙を読み、真にその通りだと思い、先程各自治体に準備を始めるよう指示をしました」「有り難う御座いました。」
その後、山田町では、各地区に自治会が設けられました。お寺が所属する地区長さんは、農協の組合長で組織作りに長けていて、地元の社長や、自衛隊のOB、婦人会で役員会を結成し、県のモデルとなる程でした。私は当時、東京の本部や全国を布教して歩き、お寺を留守がちで、自治会の会議には出席出来ていませんでした。
江戸期に和歌山で深夜の津波の時に、頂上に焚き火をして、その灯りを頼りに人々が避難したと本で知りました。早速、地元の製材所にお願いして、製材の木っ端を貰い受け、トラック2台で運び、お寺の青年部で寺山に担ぎ上げ、本堂脇の海側に積みました。それは何年も前のことです。日当たりが良く乾燥しています。
・津波の霊夢、半年前
津波前年の秋頃(半年前のこと)。霊夢がありました。山田町をR45で南下すると20分程で、片寄せ波で有名な浪板海岸です。国道の左側に小パークがあり、展望台になっています。私が其処に立ち、海を見ています。時刻はお昼前後でしょうか?
すると、沖合から白波が押し寄せ、「此れは津波だ」直ぐに足下が海水で洗われ、危険を感じ、後ろの国道とJR山田線に駆け上がっていました。後日検証すると、津波は確かに此高さまで到達していました。30㍍はあるでしようか
・予備津波、7日前、車の避難場所確定、ヒヤリ
2011.3.11の7日前に地震があり、避難勧告が放送されました。地域の住民がお寺に集まり、皆で波を観察しました。僅かな潮位の変化でした。私は息子と車の避難場所を探しました。当山のPは、堤防の海側に在るのです。結果として役場の駐車場にしました。
大津波当日、妻はスーパーの買い物を終えてお寺に居ました。二人の息子は直ぐに車に急行し、堤防の外から車で逃げる時に、消防団員が門扉を閉める間際ぎりぎりで間に合いました。ヒヤリとする一瞬でした。
・本震、ビデオ撮影、停電・断水、130名を60名に、NHK取材と全国放映、TBS、新聞社、週刊誌
2011.3.11私は、間もなく開催の、栃木県本山妙顕寺の晋山式準備中でした。
寺務室でパソコンに向かって居ます。ゴオ-という地響きが地下から伝わり、大きく揺れ出しました。動けません。1分経って立とうとしたら、又、同じ事が、又と、3回続きました。台所の食器棚からは何も飛び散りませんでした。
此れは普通では無いと思い、即座にビデオ・三脚・電気コ-ドを持って、本堂に走りました。
津波動画は、「YouTube 東日本大震災 山田町 善慶寺 三浦恵伸」で視れます。
元版には、第2波の引き波の時に、湾の中央に点在する、大島(オランダ島)・小島の間の海底が繋がって居るのが視れます。
ビデオを海側に向けて定点観測です。山田湾は海の十和田湖と称される内海であり、外海の様な覆い被さる高波は来ません。潮位の変化は一点を注視です。波止場の船溜まりの出入り口に向けました。7日前とは大違い。見る見る水位が上がり、やがて、船が暴れ出し、津波が堤防(8㍍)を越えそうになりました。第一波は海産物処理場の屋根までで引きました。
此時に町場では、家に貴重品を取りに戻った人達が次の更なる大波に呑まれました。
第2波が直ぐに襲い、忽ち堤防を越えて町中に浸入、漁船や車も超えて来ました。此時、魚市場付近の最近出来た防潮堤が破壊され、町中心部が津波で大きく洗われたのです。やがて、その水がお寺の方に流れ、家々・電柱をなぎ倒して行きました。この間僅か10分の出来事です。
停電でコンセントは無益に。電池のみとなりました。第2波の引き波は凄まじく、町中の大水が魚市場へ逆流、多くのモノを海へ引きずり込み、お寺の目の前で大渦となりました。湾中心部の大島(通称オランダ島)と小島の間が海底で繋がって見えました。
昭和8年3月3日の三陸津波の時、総代の岩間シノブさんが、娘時代で、「水天宮さんの高台から眺めていて、繋がった」と言って居ましたので、今回もそうだと思いました。これはビデオ(元版)に収まって居ます。80~100年おきの現象です。高波が30㍍、引き波が30㍍では、60㍍の潮位の変化です。
水道も遮断
人々が脅えながらお寺に集まり、海を眺めています。「あ-家が流された-」と泣き叫ぶご婦人。皆、茫然自失の表情です。
狭い境内に130名程が居ました。今夜から避難所です。本堂は狭く全部の収容は無理なので、60名にして貰いました。後は役場の保健センタ-へ。しかし、この後火災が役場へも迫り、又、豊間根方面へ移動となったのでした。
報道陣がお寺へもやって来ました。NHK渋谷センターから来たというディレクターは、私の「ビデオ映像を欲しいからチップを貸してくれ」と言いましたが、断りました。紛失の危険性があったからです。すると彼は、「盛岡に戻り、発電機とパソコンを持参するからコピーさせて欲しい」「OKです」
直ぐに全国ネットで放映されました。TBSでは東大教授がこの映像をみて、夫々違う地震の津波だと解説していました。「第1波の引き波に被さるように、第2波の大波が直ぐ襲った」と。
新聞社や週刊誌も取材に来て記事になりました。
・避難所開設、方針(新病人を出さない・揉め事を起こさない・朝晩の祈り)、自治会とで役員会、隣の寺の保育園児も避難、薬名記録
正に俄作りの避難所です。4歳から80代の老若男女が40畳の外陣に雑魚寝。寝具も無し。電気・水道がストップ・灯油が不足。お寺にストックして有る分だけは提供。写真の円形ストーブ1個のみ。お寺の供物の果物を60等分して食べました。ミネラルは大事。
寺族(妻と二人の息子)は庫裏に寝かせ、私は本堂に居て、24時間避難者と寝食を共にしました。体育館ではないので、自治会に丸投げは出来ません。
私は新しい病人を出さないこと。揉め事を起こさないこと。を基本に運営したいと思い、自治会役員と協議して皆さんに周知を図り、運営しました。
深夜に皆口を開けて寝て、埃を吸い風邪を引きます。風邪は万病の元。要注意です。
若い女性に、避難者の病名と薬の聞き取りをメモして貰いました。後日医療チームに渡す為です。
その夜には、行政から、おにぎりの提供がありました。また、毛布が数日後に、自衛隊から給付されました。
4歳の娘さんが咳をしています。これが拗れると直ぐに蔓延すると心配しましたが、間もなく治まりました。何とカレーライスの効用でした。
津波と共に大火災が町中心部を襲い2日間延焼しました。空は真っ赤に染まり、大爆発音で窓が振動します。隣のお寺の保育園児も親や保育士と2晩泊まって行きました。
朝晩お祈りの時に、ミーティングをします。朝は本日の行動予定の周知。夜は各班の報告と反省・改善点・皆さんの健康状態のチェック等。意見も受け付けます。
若い女性から、歯磨きの大事と、運動不足の解消が求められ、直ぐやろう。翌日には歯磨きセットを60名分購入。朝晩皆で歯磨きです。又、ラジオ体操も行いました。
・班編制、役務(作業・調理・整理・事務)、献立、支援物資 野外炊飯器
揉め事は不平等感から起こります。此の避難所は平等に運営されていると皆が感じれば、仕事にも協力して貰えます。そこで、全国から届く支援物資は、全て記録しました。何時、何処の誰から、何が何個届いたか。それは、何時どう活用されたか。若い女性2人と、自衛隊OBの男性に担当して貰いました。誰でも何時でも閲覧出来るようにしました。
二山超えて沢水を汲みに行きます。役場へ支援物資を受け取りに行く仕事もあります。元気な男性の仕事です。1日3回の食事の支度と後始末があります。主に女性の出番です。
幼子と自称老人以外は、写真のように3班編制に参加し、ローテーションしました。引け目無く食事をして貰う為でもあります。
当山では、写真のように献立も作れる食材の豊富さでした。先ずは避難者の中に漁業従事者が多く、船を所有している方が、魚を提供してくれました。捌くのも調理もお手のもの。避難者の中には普段の食事よりも豪華だと喜んで居ました。
其れも此れも、全国からご支援戴いた賜です、本当に感謝に堪えません。
震災前は町の下水道工事中で、町外から業者が来ていて、足止めとなり、境内でテントとを張って3晩過ごしましたが、あの木っ端が大活躍し、雪の中でも暖を取れました。
初動の早さは、日蓮宗岩手県青年会と全国日青でした。多くの物資を届けてくれました。岩手県宗務所、日蓮宗宗務院からの手厚い支援もありました。
驚いたのは、千葉県匝瑳市の介護施設運営者の金沢恵俊様が、マイクロバス満杯に、食材・衣類・燃料などを運んで戴いたことです。
支援物資の食材は米・麺類・パン等、炭水化物が主体です。私はタンパク質、野菜や果物のミネラル類もSOSしました。
北海道の関龍雄上人は、パックの豆腐を沢山送ってくれました。体育館では考えられない様な食事環境だったと思います。
役場の課長が来山し雑談中、「町の幹部は何を食べているか」と尋ねると、「パンや麺類ばかり」「それでは良い智慧も浮かばないから栄養面も考えて欲しい」と言いました。
特筆すべきは、この自治会は大型野外炊飯器を2台持っていた事です。自衛隊OBさんが居ればのことでしょう。燃料は灯油です。ご飯やお汁も調理出来ます。大活躍でした。温かい食事に避難者の満面の笑みが何よりの事です。
・7日目、役場へ、御神酒、爆睡、自衛隊、医療チームの派遣、発電機で携帯充電
私は本堂の中央に陣取りました。日の出と共に起き、日没と共に休む。風邪予防の為に、夕方本堂内を箒で掃き、夜就寝の準備が出来たら、窓を全部開けて空気を入れ換えます。寒いけれども深夜の埃を少しでも吸わない為です。
朝晩太鼓を叩いて読経・唱題・祈願・震災犠牲者の廻向を捧げました。信教の自由で反対をする人も居ましたが、そのような方は外に居ても良し、聴かなくても良し。自由です。多くが隣のお寺の檀家ですが、殆どが手を合わせて居ました。ビデオに映って居ます。神仏の大いなるお手配が有ったと感じて居ます。
漸く避難所運営も軌道に乗り、7日ぶりに役場へ出向きました。アッと驚く光景。
道路は瓦礫物で塞がれ、町中心部は大火で消滅していました。見たことは有りませんが、関東大震災や東京大空襲もこうだったのだろうと思いました。
消火栓や消防自動車は使えない状況でした。ヘリコプターの空からの消化が延焼をくい止めたのでしょうか。
神戸からいち早く、移動電話車が来ていました。他県の警察車両・自衛隊も。
徐々に瓦礫をかき分け、道路が確保されて行きました。
7日を経て御神酒を戴く事とし、飲める人には紙コップで分けました。私も少々呑んで寝ました。バッと爽やかに眼が醒めて起きると、まだ夜の11時です。4時間爆睡したのでしょう。頭の芯がスッキリしていました。隣に寝ているもう一人の自衛隊OBさんが、「今回は私が火の始末をしましたよ。和尚さんが全く起きないから」
震災以降余震が酷く、深夜には蝋燭とストーブを灯して居ますが、揺れ出すと、私が起きて消して居たのです。
荒行では睡眠不足で、孫悟空の様に頭が金縛りに遭いますが、今回も良く似ていました。
深酒をして失火する話を良く聞きますが、正にその通りだと思いました。
自衛隊の医療チームが来てくれました。薬の聞き取りメモが功を奏し、速やかに対応出来ました。チームは昭和大学と入れ替わりました。暫くぶりに血圧測定をすると、皆30ほど上がっています。気づかない内に。
寝食を共にしていると、人と名前が一致してきて、目つき顔つき素振りから、心が読み取れます。皆目尻が上がり気が短くなっています。(皆檀家さんではなく、普段の交際は無いので、名前と顔が正確には分かりません)
・哀しみ
避難者の中には、親族の3人を亡くした方も居ました。皆が住む家を財産を無くしたのです。深い悲しみと絶望の底に居ますが、一人だけでは無く、避難所生活の維持もありますから、人前では明るく振る舞って居るのです。私はこう言いました。「皆さん長トイレをして、そこで涙を流して下さい。感情を押し殺すことは、心身にとって良くありません。幼子が天真爛漫なのは、直ぐに泣き叫べるからです。」
お寺のトイレは直ぐに満杯になり、男子は外に仮設トイレを拵えました。
自衛隊が発電機を搬入。堂内外に蛍光灯を灯しまし、順番に携帯の充電をしました。沢山のMailが来て居ました。
・仮設風呂、北海道陸自、大雪、17日ぶりの入浴
北海道陸上自衛隊が、県立山田高校グラウンドに仮設のお風呂「大雪」を設置してくれました。私達は17日ぶりに入浴が出来ました。頭髪は油で毛が固まっていて、4回洗いました。疲れが芯から抜けました。「大雪・タイセツ」と呼ぶと、若い自衛官はニコッと笑みを返しました。なかなか「タイセツ」と呼んでくれないからです。私は母が大雪山の麓の出身で、母と共に訪れたので、分かって居ました。
・昔取った杵柄 あわや火災? 終盤に
永年自転車店を経営していたご老人は、目下心臓の病。しかし、本堂出入り口や、台所の戸が開閉の度に、ガタガタとうるさく、困って居ましたが、この方の出番、訳も無く直りました。
又、避難所も終盤となり、皆過労気味、さすがの自衛隊OBさんも、想像力が欠如していました。ある方が夕方ストーブに灯油を注入するとき、溢れて全体に掛けてしまいました。どうするのかと眺めて居ると。布きれで外側をサット拭いて、直ぐに着火しようとするではありませんか。OBさんも見ていました。
私は直ぐに止めましたが、「だって寒い」「ならば本堂の外に持ち出してからにして下さい。消化器も一緒に」
彼が玄関の外で着火すると、忽ち火柱が。慌てたその方は、勢いよく足で蹴飛ばしました。消化器で鎮火。その日は暖の取れない夜でした。
その傷んだスト-ブは、明くる日、自転車店のお爺様が手際よく修理、してやったりの笑顔をみせました。自分の出番がありました。
・一句
昭和大学の鈴木医師が、別れ際に何か記念に書いて欲しいと言いました。側に在った半紙に走り書きをしました。
震災の日は雪で寒い思いをしましたが、庭の梅の木に一輪の紅花を付けていたのが印象にありましたので、「紅梅一輪 瓦礫化粧の 牡丹雪」 紅梅一輪を、うめひとつ と呼びたいです。
そして、クルーは薬王薬上菩薩の変化身であり、皆さん輝いていました。と讃えました。大学の役員室に掛けてあるようです。
・知事が内陸の温泉地へ集団移転決定
下旬には、知事が被災者を県都周辺の温泉施設などを借り上げて、集団で移動させることとしました。多くがお寺の避難所生活で落ち着きを得て、このままが良いと言いましたが、「後になると、散り散りバラバラにされてしまう、今なら、このメンバーで揃って同じ処に居れるから、今決断した方が良い」と説得しました。
皆で撤収の為に、本堂内外の清掃。仏像には沢山の埃が溜まって居ました。
・幼子の祈り
いよいよお別れの時、マスコットガールの幼女が、正座をして仏前に手を合わせ、深々とお辞儀をしています。長い時間でした。思わず
「手を合わす 心に宿る 仏様」
の句が浮かびました。
次男は立正大学の卒業式をスルー。隣の娘さんは、山田北小の卒業式がスルーに。
皆、迎えの大型バスに分乗して、盛岡へ向いました。
・初期の願いは叶う
新しい病人は出さない・揉め事を起こさない。は叶えられました。神仏のご加護と関係者のご協力のお陰です。
・避難所閉鎖 ・自治会再開、会議場所提供、役場との連絡
3月末で避難所は閉鎖しました。公民館は津波で流失しましたし、住民も減りました。お寺の沢に残った方たちと自治会を再起し、本堂を会議室に開放しました。役場との連絡、支援物資の受け取りなど、個人よりも団体の方が行政側もお互いに都合が良いのです。
電気が4月16日、水道は23日の復旧でした。それまでは、下の国道まで給水車に、ポリ袋で水を貰い、運び上げねばなりません。水はとても重いものでした。
電気の復旧に寺族で拍手しました。
・漸く、お寺の被災状況確認、檀信徒の状況確認へ
境内の地盤が緩くなり、地割れや、本堂基礎の亀裂、建物・墓石等の損壊がありました。
檀信徒との連絡は、郵便局が宛先を良く調査して届けてくれました。返信ハガキを同封しましたので、徐々に様子が分かり始めました。亡くなった方、行方へ不明の方があり、家を流された方は随分多くありました。
日蓮宗が被災者に見舞い金を届けてくれたので、遠方の方には現金書留で送りました。
宮古土木事務所にこの地に止まっても良いのか相談しましたが、所長と2課長が視察に来山して、「来年の予算を獲得し、ボーリング調査をして、お答えします」と言いましたが、長引き、結局目視のみとなりました。
結果は、大丈夫との解答でした。
ところが、令和4年(11年後)にはレッドゾーンだと言うのです。
11年が経過し、団地や防潮堤も完成し、震災復興事業は終わりますが、人口の流出は進み、町の経済は下降しています。
全国的に自然災害はこれからという感じがします。日蓮聖人の鎌倉期と状況が似ています。災害や飢饉・疫病・内乱・外寇など。国民の精神を一つに気を引き締めていかねばなりません。
・霊夢
震災後に霊夢で、津波が新しい防潮堤の半分まで超えてくる様子を見ています。昼間でした。自分の車が波に呑まれました。織笠の坂を越えて境田から川向の間で、右眼に防潮堤が入りました。
避難所は役場が指定したことですが、震災後と10年後に役場が編纂した記録誌2冊には、お寺の避難所のことは掲載がありませんでした。当山以外にも避難所を開設したお寺はありました。体育館と同じだと思っていたのでしょう。しかし、お寺は檀信徒によって維持されている処です。しかも避難者の多くが檀徒ではありませんでした。
行政側の考え方の問題ですが、お寺も避難所として機能したことを記録として残しておくことも大事と思い、このブログを記しました。
教訓
快眠・快便・快食・公平・神仏のご加護お手配
が、避難所生活を通じて、改めて得た教訓でした。