遠忌法要-5 750遠忌 宝治合戦 H8.6.5 善慶寺
令和4年のNHK大河ドラマで、目下放映中の事です。
私は25歳の時に、歌子さんと、三浦半島を慰霊旅行しました。
鎌倉幕府 評定衆の 三浦氏7代目 泰村公は、北条氏と安達氏の謀略で、一族が殲滅されました。父6代目 義村公が没するのを待っての事でした。
頼朝公の法華堂に276名が籠もり、自刃したと伝わって居ます。頼朝公の墓所の奥に櫓があり、三浦氏の墓もひっそりと建って居ます。
一説に依れば、此時に泰村公の遺児は、母の計らいでお寺に入り天目上人となり、後に日蓮聖人に師事して、美濃阿闍梨天目日盛として、中老僧に列したと言われています。
母は幕府が道元禅師を鎌倉に招聘した時に、摂待役をしていて禅師と面識があり、そのつてを頼ったのかも知れません。
日蓮聖人はその頃は、近畿方面に遊学中でしたが、御遺文には、この戦で三浦泰村公が亡くなった事を知り、義村・泰村親子の不遇を記してあります。
義村公は、三浦氏の全盛期を迎えた人で、承久の乱では大将として、3上皇の流罪や、次期天皇の差配を指揮しており、後鳥羽上皇の遺児・日蓮聖人としては、因縁浅からぬ関係でした。