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日蓮仏教

2016年5月10日

世界平和・実現の基地・立正安国・日本 

の愚考を簡略に述べます。

 

・日蓮聖人のご人格(霊格)は、法華経に示された壽量御本仏の勅使(ちょくし)、本化上行菩薩身であること。

・上行菩薩は、本法・南無妙法蓮華経を以て大衆を救済すること。

・南無妙法蓮華経とは、大衆の本質である仏性を開く妙薬で、功徳があること。

・社会構成員の大衆が、本質の仏子として成長し活動をすれば、その社会は浄土相をもたらすことです。

 

(祖師の絵画 身延山 久遠寺 蔵) 

 

 日蓮聖人の個人的な人生のテーマは、承久の乱に於ける、帝側敗北の真因究明にあったと思われます。

 

 その命題を胸にしての求道でした。ですから、聖人の結論は理想に逃げるのでは無く、極めて現実的なのです。

 

1222承久4年(貞応元年)2月16日、今の鴨川市小湊で善日麿としてご降誕。

1233天福元年12月 (聖寿12歳)清澄山にて諸仏房道善に入門されます。

1237嘉禎3年10月8日(聖寿16歳)受戒。蓮長と号されます。

聖寿17~20歳まで、当時の首都鎌倉へご遊学。

聖寿21~32歳まで、当時の最高学府・比叡山延暦寺を始め、近畿の諸大寺などへご遊学。

 

 この間、「故のそうらいけるなり、狐疑の氷溶けぬ」と永年の命題は溶解したと思われます。

1253建長5年4月28日(聖寿32歳)故郷の清澄山で、立教開宗されます。

 

儀式は、お1人で太平洋上昇り来る旭日に向い、お題目を声高々にお唱えになったと言われています。

 期待をして集合した、師匠や同輩、知古、少々の人々に、法華経の法門を説かれるや、地頭・東条影信によって、即座に処を追われ、後々までも執拗に狙われます。

 

日蓮聖人のお名前は、

妙法蓮華経 如来神力品第 21

如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇

「日月の光明が、よく諸々の暗を除くように、この人世間に行じて、よく衆生の闇を滅する」

 

妙法蓮華経 従事涌出品 第15   

不染世間法   如蓮華在水

「汚泥の娑婆に 美しい人生の華果を稔らせよう」

から、聖人がご自身で撰名されたと御書に記してあります。

 

 御本仏の慈悲は、その真理を説くだけでは終わらず、末代の大衆を救済する勅使(ちょくし)を、派遣すると預言します。

 

 妙法蓮華経 如来神力品第21に示される、上行菩薩等の四大菩薩をリーダーとする、御本仏直属の使い、本化の菩薩達です。

 

 霊化®社会の図で示すように、自然界の四大系を暗示しています。私たちの身体はこの四大・地水火風の化合物であり、三仏(空)の生命システムによって営まれているというのです。

 現代科学はそのことを、更に細密な素粒子に捉えています。

 

 お釈迦様の身体と、私たちの肉体と、大自然は一体だと認識したのです。

 

 そのシステムですが、未来科学は更に深化するでしょう。このまま行けば、宗教界よりも先に、科学が推進するかもしれません。

 

 鎌倉時代この日本国に、神力品に預言された仏使として、生きられた日蓮聖人の偉業を再確認し、人類世界が破滅する前に、遺業を再起動しなければなりません。

 

最近の日本国土の様子は、鎌倉期のそれと酷似しています。

 

・話は元に戻り、

日蓮聖人は、災難を払う方途を再考し、静岡の実相寺に籠もり、一切経から論文「立正安国論」を認められ、鎌倉幕府に提出されました。そのことが仇となり、数々のご法難となりました。

 

下 写真  立正安国論の建白と、ご法難の数々。

鎌倉・松葉ガ谷のご草庵焼き討ち。伊豆流罪。

下の絵は、開宗以後、

聖寿34歳の文永元年11月11日、故郷にご生母を見舞われた時、執拗に聖人を追っていた、東条影信の襲撃を受け、弟子檀那が殺され、ご自身も眉間に刀傷を負われた、小松原法難です。

幕府に捕らわれ、八幡社頭で、源氏の守護神、八幡様を諫暁されたということです。

「この國を救わんとして、ご本仏との約束を果たし、法華経・お題目を弘めるだけの日蓮を罪人として扱う所行。八幡あなたも虚空会上、仏前の誓願を見ていただろう、このまま見過ごすことは無いと思うが如何?」

幕府の警視総監・平の左右衛門は、夜陰に乗じて、龍ノ口で斬首しようと謀りました。しかし、江ノ島の方より、光り物が飛来。果たせなかったようです。

「この人を殺めてはならない」との幕府の指示通り、生きて帰った人の無いという、佐渡流罪となりました。

 

佐渡島では、配所の周囲に見張りが立ち、餓死させるつもりだっ たと思われます。

 

 「偽の御教書を申し下して ~ 佐渡国へ渡して仇をなす。~ 日蓮が居たるあたりに夜も昼も立そいて、通う人を強にあやまたんとすれば ~ 何れ問うべき人一人も無し。」

 「天の御計にてや候けん、阿仏房の日蓮を扶持せし事は ~」

と、波木井殿御書に述懐されていますが、

 

阿仏房は元北面の武士で、承久の乱で佐渡流罪になった順徳上皇に対し、崩御の後も佐渡に留まり、永年お念仏で菩提を弔った、聖人の敵の筈です。

 

しかし、一転して四面楚歌の中を、命がけで聖人を衛護する立場になった事には、深い因縁があると思われます。

 

後鳥羽帝と祖師が親子であれば、順徳帝も肉親。阿仏坊にとっては、掛け替えの無いお方になるのです。

 

・法華経は仏身の三面観を立てます。

概略ですが、以下のように考えます。

 

 法身仏(ほっしんぶつ)・自然科学のフィールド・身土不二・身体生命の素は星屑からが、人の一滴の血液の分析(フランスの研究所)から証明されました。宇宙大に 広がる身体。

 

 報身仏(ほうしんぶつ)・精神(心霊)科学のフイールド・仏の智慧・仏の精神世界・法華経の世界

 

 応身仏(おうじんぶつ)・人間社会科学のフィールド・仏の振る舞いに理想を見る・一切経が仏の活動を思い描いたもの。

 

そして、その三身が即一身でもあるというのです。それでこそ、円満な仏と言います。

 その仏が登場したのが妙法蓮華経でした。

 

 私たち凡夫が仏と同じと言われても、まさかと思います。日蓮聖人も、

 

 「十界互具之れを立つるは、石中の火、木中の花、信じ難けれども縁に値うて出生すれば之れを信ず。人界所具の仏界は、水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。・・・」観心本尊鈔

 

と述べておられます。 

 

 日蓮聖人は法華経に深く分け入り、霊界(虚空会・こくうえ)で壽量御本仏に面奉され、その仕事を引き受けられました。

 

 1253建長5年4月28日 (聖寿32歳)の立教開宗から、1271文永8年11月1日(聖寿50歳)佐渡御流罪までの18年間は、大難4ケ度、小難数知れずの法華経色読の時代で、人々から見て、なるほどこの方は法華経の行者であると、認知されることを待たれたのだと推察します。

 

 佐渡在島中、いよいよ秘蔵の法門が開顕されます。もしこのまま佐渡島で終わるならば、末代の人々から、日蓮という人は慈悲無き人と言われるであろうからと。

 

・人開顕の書・開目抄・本化上行菩薩身

 

・法開顕の書・観心本尊抄・本法・南無妙法蓮華経と法華行者の尊貴

 

・そして、浄土相を示した・大曼荼羅御本尊が図顕されます。

 

 これは、世界平和実現の設計図と言えます。私たちは日蓮聖人が意図された、平面上の設計図を読み解き、現実世界に立ち上げる仕事があるのです。

 

「一閻浮提第一の本尊を、この國に立つべし」観心本尊抄

今多くの人々が恐れているであろう、近い未来の危険を未然に防ぐためにも・・・

 

 聖人を排斥した鎌倉幕府も、最後は流罪赦免状を出して幕府に迎え、法華弘通の認可を与えて、 蒙古襲来の時期を尋ねます。法華経の行者と認知したのです。

 

しかし、国難を払う手段に就いての問訊は無く、一国同帰を期する聖人は、3回諫めたのに用いないのだから、去るべしと、甲州身延の奥沢に分け入られました。

 

9ケ年間、文筆(著書・消息)、弟子門下の教育に当たられました。途中体力の消耗は、著しいものでした。

いよいよ今の東京都池上が、ご最後の霊地となります。

 

現代に、日蓮聖人のお題目を唱える人々は、「日蓮と同意ならば皆、地涌の菩薩」であると仰せです。

その意味を深く吟味して、社会に対処しなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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