史跡慰霊-1 三浦半島
令和4年、NHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」ですが・・・
25歳頃、歌子さんと巡拝しました。
初めての地、三浦半島。書籍などを集めて、一日で歩く(電車・バス・タクシー・徒歩・船)計画を立てました。
曇天で今にも大雨が降りそうに、肩まで黒い雲が降りて居ます。
鎌倉八幡宮で、
「この巡拝が無事に終わるよう、雨を止めて戴きたい」
と、懇請しました。
城ヶ島の船の遊覧だけは、高波でダメでしたが、他は予定通りに廻りました。
衣笠の青雲寺・三浦氏3代。為道・為次・義継公(前九年後三年合戦従軍)
衣笠の満昌寺 三浦氏4代目。義明公(頼朝公旗揚げに捨身・頼朝公感恩)
ご住職(建長寺宗務総長)から、三浦氏系図2巻を拝見。初代・為道公の舎弟・園城寺上座僧・三浦惠算法院を、因縁の人と感得。爾来供養を重ねました。
源氏の棟梁・頼家公は、この頃園城寺の信徒になっていて、東北征伐の談義を重ねたのでしょうか、板東8平氏も加担し、法印も従軍僧として両軍に影響があったようです。
下は、園城寺
衣笠の薬王寺跡 三浦氏5代目。義澄公(評定衆)
三浦氏6代目。義村公(評定衆・全盛期・幕閣№2)
三浦氏7代目。泰村公(評定衆・全盛期・幕閣№2)
北条と安達の謀略で、頼朝公の法華堂に籠もり
276名で自刃。
このお墓の右奥に、櫓の祠が在り、三浦一族が眠って居ます。
この時に、四散した一族が在り、嘗て岩手に落ちた、霊夢は別の項に記します。
私の先祖は、三浦氏の知行地、和歌山・河内・土佐
讃岐等を海伝いに西へ向かい・肥前に落ちたと思われます。
父の生家は、熊本県下益城郡中央町(現・美里町)で、墓は在りますが、嘗ては熊本市と言います。肥前から南下した者か?
やがて、直ぐに再起上京して、後醍醐帝に近侍したのが、霊夢の「三浦大納言時光公」でしょう。
カテゴリーの霊夢とリンクして、話は進みます。
横須賀駅で電車の人となった途端に、土砂降りの大雨。鎌倉通過の途中、電車の中から、八幡様にお礼を申し上げました。
因みに、家に着いてから天気図を見ると、三浦半島に向っていた低気圧は、90度右旋回して、太平洋に去って行きました。